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 剣客商売十一 勝負【小判二十両】

 秋山小兵衛は、浅草船場にある船宿〔鯉屋〕の隠し部屋から、ある密談を覗いていた。
 小兵衛がみたのは二十数年ぶりに会った弟子の小野田万蔵。
 相手の男は、小判二十両で、ある町人を襲って欲しいと依頼していた。
 小兵衛は、万蔵が足を踏み外さぬよう探りを入れたが……。

 寺嶋村の豆腐屋が毎朝の豆腐を届けに来た。
 夏になると、小兵衛は朝から豆腐を食べるので、日に四丁の豆腐が要る。
 江戸水でよくよく冷やした豆腐の上へ摩り生姜をのせ、これに、醤油と酒を合わせたものへ胡麻の油を二、三滴落としたものをかけまわして食べるのが、小兵衛の夏に好物であった。
 その〔かけ汁〕の加減がむずかしくて、おはるは少女のこから小兵衛の許にいて、このかけ汁をこしらえてきたわけだが、このごろ、ようやく小兵衛の文句が出なくなった。
 「剣術使いは飲み食いの加減がうるさいねえ、三冬さま。おたくの若先生もそうですかね?」などと、つい二、三日前に、隠宅にあらわれた三冬へ、おはるがいったものだ。

【冷奴】
料理:野崎洋光
材料:二人分
絹ごし豆腐(1丁)生姜(1片)醤油(大さじ2)酒(大さじ1)ごま油(小さじ1/2)わけぎ(1/2本)

豆腐は8当分に切り、皿に盛り付けるまで氷水で冷やす。
わけぎは青い部分だけ刻み、生姜は摩りおろす。
醤油と酒は火にかけて、じっくりと煮切り、ごま油を垂らす。

皿に豆腐を盛り付け、薬味を乗せ、かけ汁をかける。

※食べる途中で野崎洋光氏は手削りで本枯れ節を削って添えた。


 その男(一) 池波正太郎 (文春文庫)

 時は江戸末期十三歳の杉寅之助は、自ら川に身を投げた。
 池本茂兵衛ががこれを救い剣術の弟子とした。
 恩師は公儀隠密だった。
 六年後、立派な剣客となった寅之助は、幕末の混乱へと巻き込まれてゆく。

 杉寅之助が、父、平右衛門と偶然に出会ったのは、この年の五月はじめの或る日のことであった。
 前夜。
 寅之助は深川新地の百歩楼へ泊まっている。
 例によって、相手の娼妓は歌山であった。
 百歩楼のあるじ幸右衛門も、「それほどに歌山が……」おどろいている。
 深川新地は、なかなかに格式も高く、同じ妓楼で遊ぶからには、いったんなじみとなった女を捨てて、他の女を相手にすることを、客として、つつしまねばならぬ。
 だからといって、新地名物の〔盤台面〕の歌山へ、寅之助ほどの、「いい男が、なんで……?」百歩楼の他の娼妓たちが、くびをかしげているとか。
 そのかわりに、もう歌山としては大得意であって、寅之助が来れば、あらんかぎりの誠意をつくしてもてなしをする。
 山口金五郎も、寅之助と共に百歩楼へ来るたびごとに、「あの歌山、どこがいいのだえ?」けげんな顔をするのだが、「他人には、わかりませんよ」寅之助は、にやりとしてこたえる。
 「そうかえ。おれから見るとあの女、顔も躰も、とんとしまらねえようにおもえるが……」「他人の知ったことではありませんよ」「勝手にしやがれ」その日。
 杉寅之助が百歩楼を出たのは、四ツ(午前十時)をまわっていただろうか。
 朝起きて、湯を浴び、歌山と共にゆっくりと酒を飲んだ。
 そのあとで、大根おろしへ梅干しの肉をこまかくきざんだものをまぜ合せ、これへ、もみ海苔と鰹ぶしのけずったものをかけ、醤油をたらした一品で、炊きたての飯を食べる。
 この一品。
 名を〔浦里〕といい、吉原の遊里で、朝帰りの〔なじみ客〕の酒のさかなや飯の采に出すものだが、深川でもこのごろは、名の通った岡場所なら吉原のまねをして浦里を出す。
 歌山なんぞは、自分でこれをこしらえてきてくれる。
 ちょいと、その、うまいものだ。

【浦里】
料理:野崎洋光
材料:二人分
大根(四分のⅠ)梅干し(大2個)鰹節(10g)大葉(5枚)醤油(小さじ1)海苔(2枚)

大根は摺りおろし、しっかり水気を切る。
梅干しは種をとり包丁で叩く。
そこに大葉を手でちぎり、さらに包丁で叩く。
それを削り節と混ぜ合わせる。
おろし大根も加えさらに混ぜ合わせる。
醤油も加えまた混ぜる。
海苔は焙り、ちぎって添える。

【浦里の由来】
この料理名は、十代将軍徳川家治の頃、当時流行していた浄瑠璃「明鴉夢泡雪」に登場する吉原の遊女”浦里”から由来されている。

※野崎洋光氏も本を読むまで、この料理は知らなかったと言ったが、勿論私も初めて知りました。


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